今日は夏至。ワクチン反対する政党がない!

今日は夏至。ワクチン反対の政党がない!

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ある方の投稿です。

【分断の時をどう生きるか?】
この2年半ほど、私たちは分断に続く分断を経験してきた。まず起こったのは、あるウィルスが危険なのかどうかについて、いたるところで激しい議論があり、どうにも理解し合えないという事態ができたことだった。そして、そのウィルスの感染を予防するという薬が危険なのかどうかについて、また話がまるきり通じないような分断ができてしまった。
現実の危機ならば、たとえ見解に違いがあったとしても、これほどに話が通じないなどということはない。すると、これはメディアによる心理操作で作られている状態だったということが、だんだんとわかっていったのだ。恐怖をかき立てるような映像を繰り返し流し、この危機から皆を守るためには、どうするべきなのかということが繰り返し示される。それに従わないのは頭がおかしいとか、社会的じゃないとか、そういう印象が作り出される。このように操作されてしまうと、それに合わない話は、何をどう言ってもまったく意識に入らず、話がまったく通じないという状態になってしまう。
これは集団心理学で大衆形成(mass formation)と呼ばれているもので、意図的に大衆を操作するために、昔から使われてきたのだということを、ベルギーの心理学者デスメット教授がフュルミヒ弁護士たちの大陪審で証言していた。古くは十字軍などもこうした心理操作によるもので、フランス革命やロシア革命、ナチスやイラン革命などでも使われてきた手法なのだそうだ。大衆形成は、多くの人々が、自分や自分の愛する人たちを犠牲にしてでも、一定の方向に共に攻撃性を向けるという状態を作り出してしまうのだと。
今年の2月になってウクライナの戦争が始まったら、今度はロシアが悪いのかどうかでまた分断が起こった。メディアはロシアが悪いと言って、残虐な映像を繰り返し流し、すべてロシア軍がやったことだと言っていた。それで、テレビや新聞で情報を取っている人たちは一方的にロシアが悪いと思い込み、ロシアを叩くためにはどんな犠牲も払わなければならないかのように思い込んでしまった。その結果、武器が次々とウクライナに送られ、戦争は長引き、ウクライナの人々の被害はますます大きくなるようなことになった。これもまた、パンデミックのときと奇妙にも似ている。
ロシアが悪いのかどうかについての分断のあとには、さらにプーチンもグレートリセットの側なのだという話がささやかれ、それについてまた分断が起こった。主流メディアを信じない少数派の繋がりができたところで、それがまたさらに分断されたのだ。これが自然発生的に起こったことなのか、意図的に作り出されたことなのかはわからないけれど、分断すればするほど世界統一支配に抵抗する人々の力は弱まる。まさにそれをこそ、この大衆形成を操っている人々が目指しているということは確かだ。互いが互いを疑うような分断の状況が生まれれば、人々は孤立し、ますます支配されやすくなるからだ。
そしてここに来て、今度は政府のパンデミック対策を批判する政党を支持するかしないかで、抗議している人々の間に新たな分断が生じた。そもそも抗議している人たちは少数派なのだから、せっかくできた少数派の繋がりを壊したくはない。できることならば共に動いていけたらいいと思う。しかしだからと言って、どうしても受け入れられないようなこともある。そうしたギリギリのところに、多くの人は追い詰められている。
オーストリアやドイツでも、パンデミック対策に対する抗議活動では、同様なジレンマがあった。与党も野党も、右も左もグリーンまでが遺伝子操作の薬を推奨するという異常な状況の中、唯一極右の政党だけが、政策を批判していたのだ。この事態を見て、与党も野党もすべて腐敗していて、グローバル金融エリートたちのアジェンダに従っていることがはっきりしてしまった。それまでは心から敬愛して、ブレることのない肚を持っている人だと思っていた政治家まで取り込まれているのを目の当たりにしなければならなかった。
それを見て、映画「スライヴ!」で製作者のフォスター・ギャンブルが、大統領になったら、大金とピストルを持った人がやってきて、協力するのかしないのかと迫るのだという話をしていたのを思い出さずにはいられなかった。それがアメリカ大統領だけの話ではなくて、世界中のすべての政党で起こっていたのに違いなかった。
そこでまず、それまで支持していた政党に残るのか離れるのかで分断が起こった。そして、離れて抗議活動を始めた人の間で、今度は唯一政策を批判している極右政党を支持するかどうかで分断が起こった。ある人は、ともかくもパンデミック対策については一致しているのだから支持しようと言い、ある人はやはりそれでも極右政党を信用することはできないと言った。
実際、この極右政党は移民に対する反感を煽ってネオナチ的な発言をしていたりする一方で、しかしだからといって反グローバル化をはっきり出しているわけでもなく、グローバル金融エリートとの腐敗の疑いもあったりする。だから、パンデミックについて政策を批判しているのも、本当に反対しているのか、あるいは単に脅されていないだけなのかがはっきりしない。なので、その選択にはとても激しいジレンマがあった。その結果、ドイツでもオーストリアでも、新しい政党が生まれて、ようやく抗議する人たちがともに政治的に動ける場ができていった。
フランスでも、極右と言われるルペンが大統領選でマクロンに迫る票を集めたけれど、彼女は反グローバル化をはっきり主張していて、NATOも必要がないから脱退するべきだと言っていた。しかし、だからこそ何とか政権を取らせまいとする力が働いたらしく、ギリギリでマクロンが当選することになったわけだった。
そんな風だから、右か左かというのはもはやあまり意味がない。つまるところ、グローバル金融エリートたちのアジェンダに従っているかどうかの違いがあるだけだからだ。右だろうが左だろうが、あるいはグリーンだろうが、どれも皆、裏では同じアジェンダに従っている。だから、本当にパンデミック政策を覆そうと思ったら、反グローバル化なのかどうか、地域経済を進める意志があるのかどうか、WHOやNATOなどの国際機関を場合によっては脱退するつもりがあるのかどうか、そこが重要なところだと思う。それというのも、2年前に始まったウィルス騒ぎも、つまるところはグローバル金融エリートに巨額の税金をまわしつつ、人々の人権を制限することが目的で演出されていたからだ。ウィルスがもはや人々を恐怖に陥れ、思うように操作するだけの力を持たなくなったら、何でも使ってくるだろう。外国が攻めてくるかもしれないとか、地球の環境が危ないからとか、人々をパニックに陥れることができるものなら、何でも次々と出してくるだろう。
日本で唯一パンデミック政策を批判している新政党については、これが本当に信頼できる政党であったらと多くの人が思っていると思う。しかし、私も含めて、どうにも信用できないという印象を持っている人が少なからずいる。パンデミックについて、主流メディアの言うことを信じなかった人たちは、情報通である以前に直感が冴えている人たちが多いのだけれど、こういう人たちはまず、候補者たちの画像を見ただけで、どうにも重い波動を感じてしまって、動画がどうしても見られないと言っていた人も多かった。もちろん、そうした直感も誤ることはあるけれど、どの情報が正しいのかがわからない状況の中では、自分の直感を磨いて、それを信用することもまた大事なことだと思う。
ところで、私の身のまわりでもだんだんと賛否両論が激しくなってきて、どういう党なのかを見てみなければならなくなり、候補者のスピーチの動画や政党のHPを見たりしていると、見れば見るほど奇妙に感じないではいられなかった。
それというのも、いくら見ても、何も言っていないようにしか思えなかったからだ。いろいろなことを話しているのだけれど、すべてが曖昧模糊としていて、一体何を言いたいのかがさっぱりわからない。漠とした危機感を煽っているように思えるけれど、何が問題で、だから何をどう変えるべきなのかという話がちっとも出てこない。何も具体的なことを言っていないので、議論にもならない。こんなスピーチでどうしてこの政党を信頼できるのか、私にはさっぱりわからなかった。
HPの政策を読むかぎりでは、右翼でグレートリセットの方向であるように思える。肝心のパンデミック政策についても具体的なことは書いていなくて、ただ健康な食と医療といった、誰も文句はないような漠たることが書いてあるだけだった。もし本気でパンデミック対策を変えようとしているのだったら、政党のHPだって情報を伝えるための場にすると思うのだけれど、そういう機能も持たせてはいないのだ。これは私にはとても奇妙に思えた。ドイツやオーストリアの新政党は、HPにいろいろな情報が載っていて、選挙で勝つことよりも、さまざまな形での抗議活動を行うネットワークになっているようなところがあるからだ。
そしてさらに奇妙なのは、皆が政治に参加する党だと言っているのに、これも具体的にどういう形で政治に参加できるのかがちっともはっきりしないことだった。だから公約を出していないというのだけれど、この論理もよくわからない。皆が参加するにしても、何か叩き台になるようなものは必要なのじゃないかと思うからだ。それに、皆が政治に参加するというのだったら、ただ一方的にスピーチするのではなくて、いろんな人に発言させるとか、討論の場を作るとかするのじゃないかと思うけれど、そうした風でもなく、異論にオープンな様子でさえない。
そしてとりわけ奇妙に思えたのは、これだけあいまいなのにもかかわらず、少なからぬ人たちが、すばらしいスピーチで感動したと言い、理想的な政党だと絶賛していることだった。そして、絶賛している人たちは、何を言っても確信が揺らがないかのようなのだ。それを見ていると、この人たちは本当ではない姿を政党に投影しているのではないかと思えてしまう。こうなると、何かしらの心理操作のようなものを使っているのではないかと疑わないではいられない。
もちろん、多くの人は無条件に信用しているわけではなく、ただパンデミック対策について批判している唯一の党だからということで、ともかくも意思表示をするために投票しようと思っている。この場合、そうした選択もあると思う。支持はしないけれど投票はするとか、支持はするけれども批判もする、というような。
ここにきて、何が正しい選択なのかは、誰にも言えないと思う。選んだあとに裏切られるなんていうことは、こうした世の中だからいくらでもある。そもそも選挙で政治が変わることなど、残念ながら今の状況でほとんどあり得ないようなことでもある。
ただ私は、今私たちにこのような状況が与えられているのだとすれば、この機会をどのようにポジティブに使うことができるのかということをこそ考えるべきではないのかと思っている。分断に次ぐ分断で、もはやまわりの人を当てにすることもできなくなっていき、自分が「正しい側」にいるのかどうかも確かめようがなくなってきている。そうなったらもう、たった一人でも納得のいく決断をして、誰が何と言おうが、自分の選択に責任を持つということをしなければならない。あるいはそのことこそは、この体験の意味なのかもしれない。
特に日本人は、無意識でまわりと協調しようとするところがあって、それは調和を作り出すすばらしい能力だとも言えるのだけれど、まさにその性質を大衆操作に利用されてきたという事実がある。そこを乗り越えていくためには、一人一人が自分軸を鍛えなければならない。誰がどうだからという判断基準を捨てて、誰が何と言おうが自分にとって納得のいく選択をするということを学ばなければならない。そして、何がどうなろうと、自分が選んだ選択に肚を据えるということをだ。ある意味、私たちは今、こうした経験をする機会を与えられているとも言える。
私たちは、どちらが正しい選択なのか?という風に考える癖があって、もし自分の選択が間違っていたことがあとでわかったら、恥をかくだろうと思っている。私のスロヴァキア人の生花の先生は、日本の古道具屋で買ったお皿が本物のアンティークではなかったということがわかったときに、「でも、自分で気に入って買ったのなら、本物だろうと偽物だろうとかまわないじゃないですか!」と言って笑っていた。自分がした選択に責任を持つとは、つまりはそういうことだ。他人の評価とか結果とかを気にするのじゃなくて、何がどうだろうと、自分はこれで納得だという選択をするということ。
何がどうなるのかはわからない。どれが正しい解釈で、何が正しい選択なのかは、誰にも言えない。そもそもそれで何かが変わるかどうかもわからない。だけど、たった一人でも自分が納得のいく選択をするという経験は、自分軸を鍛えるためには大きな体験だ。誰が当選して、政権がどうなるのかということよりも、そのことの方にむしろ世の中を変えるポテンシャルがあるのじゃないかと私は思う。

大事な点は、
1.右か左かというのはもはやあまり意味がない。
  つまるところ、どれも皆、裏ではグローバル金融エリートたちのアジェンダに従っている。
2.本当にパンデミック政策を覆そうと思ったら、
   A:反グローバル化なのかどうか、
   B:地域経済を進める意志があるのかどうか、
   C:WHOやNATOなどの国際機関を場合によっては脱退するつもりがあるのかどうか、
そこが重要なところだと思う。


グローバルリセット、ニューワールド、ペレストロイカ、SDGs、ベーシックインカム・・・・
すべて同じことを指すようだ。
共産化→一部の特権階級に完全管理された自由のない家畜社会。
社畜だけでない総家畜化。
世論が、国が、『右』と言ったら、『左』に行くべき時代かもしれない。